20年以上にわたり、彼はアメリカのテレビ界の中心に立つ、ストイックで無表情な巨人だった。そのカメラの前での姿はあまりにも硬質で、コメディアンたちは彼のこわばった姿勢やぎこちない紹介を真似てキャリアを築いたほどだ。しかし、1948年から1971年まで、毎週日曜の夜になると何千万人ものアメリカ人が彼の「本当にビッグなショー」の前に集い、『エド・サリヴァン・ショー』は国民的番組となり、その司会者は国で最も影響力のある文化の門番となった。監督サシャ・ジェンキンスによる新しいドキュメンタリー『サンデー・ベスト: 知られざるエド・サリバンの物語』は、このメディア史の巨人を再訪し、彼が残した遺産の根本的な再評価を試みる。リンゴ・スター、ブルース・スプリングスティーン、アイス-Tといった多様な著名人たちの証言を交えながら、この映画は「偉大な石の顔」の裏に、静かな革命家がいたと主張する。彼は、人種隔離が根深いアメリカのリビングルームに平等のメッセージを送り込むため、その比類なき舞台を意図的かつ一貫して人種統合の大義のために用いたのだ。
このドキュメンタリーは、そのタイトルが約束する「知られざる物語」を語るため、エルヴィスやビートルズを世に送り出したというありふれた話を超え、衆人環視の中で隠されてきた、より深く政治的な物語を明らかにする。そのために、ユニークで説得力のある手法が用いられている。AI音声技術「Respeecher」を使い、サリヴァン自身が残した膨大な新聞コラム、記事、私信から彼の声を再現し、自らの人生を語らせるのだ。この手法は、まるでサリヴァン本人が死後、自らの物語を正しているかのような、驚くほど親密な感覚を生み出す。これは単なる歴史記録ではなく、私たちが知っていると思っていた人物と、彼が形作った時代を再考させる「再評価」の試みとして、この映画を位置づける戦略的な選択である。映画は、サリヴァンの最も重要な貢献が、新たなスターを発掘したことだけでなく、アメリカの音楽、そしてその顔を永遠に変えたことにあると結論づけている。

巨人の裏側
サリヴァンの番組での決断の背景にある信念を理解するため、『サンデー・ベスト』は、公正さと包括性という彼の深く根差した哲学を確立する詳細な伝記的ポートレートを描き出す。映画は、彼が1901年にハーレムで生まれたところから始まる。当時、その地域はアイルランド系とユダヤ系の家庭が活気にあふれて混在していた。両親から教わった、出自に関係なく人々を尊重するという価値観が強調され、生後数ヶ月で双子の兄を亡くしたという若き日の悲劇にも触れられる。この平等主義と個人的な喪失の経験が、彼の人間性を形成する上で極めて重要な要素として描かれている。
ドキュメンタリーは、彼が当たり前になるずっと以前から、多様で人種が混在する環境に身を置いた形成期の経験を追う。高校時代には人種の壁がない野球リーグでプレーし、黒人の仲間たちと対等な立場で競い合った。プロとしてのキャリアはスポーツ記者として始まったが、やがて転機が訪れ、『ニューヨーク・デイリー・ニュース』紙でブロードウェイのコラムニストとなり、「リトル・オール・ニューヨーク」というコラムでニューヨークの多面的な演劇界に深く関わった。映画は、ここで彼の世界観が固まったと主張する。さらに、ユダヤ人女性シルヴィア・ワインスタインとの結婚が、彼の人生を大きく形作った。二人の関係は双方の家族から猛反対され、サリヴァンは偏見と不寛容を身をもって体験することになった。映画は、これらの人生経験がテレビ司会者としての彼の行動に直結していると明確に示している。彼の番組作りは、偶然やビジネスセンスだけでなく、生涯持ち続けた信念の意図的な表現だったのだ。彼自身のアイルランド系の出自と、妻が経験した反ユダヤ主義は、人種差別社会で苦しむ黒人アーティストたちを理解するための、強力で共感的な視点を与えた。ドキュメンタリーは、彼のテレビでの静かな活動が、何十年にもわたる舞台裏での信念に裏打ちされていたことを証明する。1940年代に全員黒人キャストのブロードウェイレビュー『ハーレム・キャバルケード』をプロデュースしたことや、無一文で亡くなった伝説のダンサー、ビル・“ボージャングルス”・ロビンソンの葬儀を個人的に手配し、費用を負担して、その才能にふさわしい盛大な見送りを保証したことなどがその証拠として挙げられている。
プラットフォームの力
その中心的なテーマに踏み込む前に、ドキュメンタリーは『エド・サリヴァン・ショー』(当初は『トースト・オブ・ザ・タウン』)が持っていた計り知れない規模と文化的な重みを丹念に描き出す。23年間にわたり、この番組はケーブルテレビもストリーミングもSNSもなかった時代に、アメリカの家庭を一つにする日曜夜の儀式であり、共有された文化体験だった。毎週3500万人から5000万人の視聴者を獲得していたという驚異的な数字は、サリヴァンに今日では想像もつかないほどの影響力を与えた。この巨大なリーチにより、彼のステージはアメリカのエンターテインメント界で最も重要な舞台となった。番組への出演はスターダムへの保証と広く見なされ、無名の人物が一夜にして国民的スターになることも可能だった。ディーン・マーティン&ジェリー・ルイスのようなコメディデュオから、ディック・ヴァン・ダイクやジャック・ベニーといった未来の伝説まで、番組で初めて全国的な注目を浴びた多彩な才能たちの力強いモンタージュが、この「キングメーカー」としての地位を物語っている。
ドキュメンタリーは、サリヴァンの deceptively simple な成功の法則を解き明かす。「盛大に始め、優れたコメディを入れ、子供向けの内容を加え、そして品位を保つ」。この多様性へのこだわりが、幅広い層にアピールする番組を生み出した。毎週日曜日、視聴者は世界的に評価の高いオペラ歌手やバレエ団が、皿回し、アクロバット、トッポ・ジージョのような人形劇、セニョール・ウェンセスのような腹話術師、そしてボルシチ・ベルト出身のコメディアンたちと同じ舞台に立つ姿を見ることができた。この「高尚なものから大衆的なものまで、そしてその間のすべて」という組み合わせが、家族全員が楽しめる内容を保証し、20年以上にわたって番組の圧倒的な地位を確立した。この力を数値化することで、映画はサリヴァンの番組編成がいかに大きな意味を持っていたかを浮き彫りにする。国の半分近くが注目する番組では、あらゆる選択が重要になる。このような状況で黒人アーティストを起用するという決断は、単なるエンターテインメントのブッキングではなく、深い社会的意味を持つ政治的な表明だった。エド・サリヴァン・シアターの舞台はアメリカそのものの縮図となり、究極の門番であるサリヴァンが、誰が国民のリビングルームに迎え入れられるかを決めていた。映画の核心的な主張は、彼がこの力を人種隔離という現状を維持するためではなく、それを計画的に解体するために意識的に用いたという点にある。
テレビという公民権運動の戦場
『サンデー・ベスト』の核心は、エド・サリヴァンが公民権運動の先駆者であったという、説得力があり、緻密に記録された主張にある。映画は、レイ・チャールズ、ジェームス・ブラウン、ニーナ・シモン、ダイアナ・ロス&ザ・スプリームスといった伝説的な黒人アーティストたちの優雅で威厳に満ちた力強いパフォーマンスと、クー・クラックス・クランの映像や臆面もなく人種差別を語る南部の白人たちのインタビューといった、当時の暴力的な人種差別の生々しい記録映像を対比させる。この対比は、サリヴァンの行動がいかに革命的であったかを浮き彫りにする。『エイモス・ン・アンディ』のように、テレビに映る黒人の姿が人種差別的な戯画であることが多かった時代に、サリヴァンは黒人エンターテイナーを洗練され、教養があり、卓越した才能を持つアーティストとして紹介した。ドキュメンタリーは、サリヴァンが広告主や、黒人パフォーマーの起用に反対する南部のテレビ局からの絶大な圧力に屈しなかった数々の例を挙げる。フォード・モーター・カンパニーの有力なリンカーン販売店を含むスポンサーが支援を打ち切ると脅したときも、サリヴァンは引き下がらなかった。彼は、黒人アーティストを起用しすぎだとか、彼の番組で白人ミュージシャンがバックを務めるべきではないといった批判を無視した。
映画は、当時としては過激だった、ささやかだが象徴的な行動に焦点を当てる。全国放送のテレビで、サリヴァンはナット・キング・コールの手を公然と握り、歌手のパール・ベイリーの頬にキスをした。これらは、当時の人種差別的なタブーを打ち破り、偏見に満ちた視聴者からの怒りを買った、単純な人間の温かさと敬意の表れだった。映画は、これらの瞬間が、黒人パフォーマーを劣った存在と見なすように条件付けられていた白人視聴者に対して、彼らを人間として描くために計算されたものだったと主張する。この一貫した黒人の卓越性の提示は、深い影響を与えた。ドキュメンタリーは、サリヴァンの舞台とモータウンのメインストリームでの爆発的な成功を直接結びつける。ザ・スプリームス、ザ・テンプテーションズ、スティーヴィー・ワンダー、そしてジャクソン5といったアーティストに定期的な全国放送の機会を提供することで、サリヴァンは彼らの音楽を「若きアメリカのサウンド」にする上で重要な役割を果たした。映画には、モータウンの創設者ベリー・ゴーディと歌手のスモーキー・ロビンソンの力強いインタビューが含まれており、彼らはサリヴァンが自分たちの成功に不可欠な役割を果たしたことを直接証言している。ドキュメンタリーは、サリヴァンの視覚的な支持と、ゴーディ自身が白人のレコード購入者を遠ざけることを恐れて初期のモータウンのレコードジャケットに黒人の顔を載せることを避けていたという告白を対比させ、サリヴァンのテレビでのプレゼンテーションの革命的な力を強調している。彼の舞台は、マーティン・ルーサー・キング・ジュニアが最も愛したゴスペル歌手マヘリア・ジャクソンをフィーチャーし、後には夫の暗殺後、コレッタ・スコット・キングが国民に語りかける場を提供することで、公民権運動そのもののパフォーマンス部門となった。映画の最も響き渡る点は、サリヴァンの活動が破壊的であったということだ。彼は大げさな政治演説をしなかった。彼はただ、毎週、黒人の天才を当たり前のこととして紹介した。この執拗で事実に基づいた統合は、アメリカの家庭の親密な空間に直接届けられ、人々の心と意識を変える強力なツールとなった。
エルヴィスの腰からブリティッシュ・インヴェイジョンまで
公民権運動への貢献の大きさを文脈に沿って示すため、ドキュメンタリーはサリヴァンの舞台で巻き起こった最も有名な二つの文化的地震を振り返る。一つ目はエルヴィス・プレスリーだ。映画は、サリヴァンが当初、その腰を振る動きが家族向けの番組には「下品すぎる」として、物議を醸したこの歌手の出演を公に拒否した経緯を語る。しかし、エルヴィスがライバル番組で記録的な視聴率を獲得するのを見て、サリヴァンは考えを変え、3回の出演で前代未聞の5万ドルという契約を結んだ。1956年9月9日の初出演は6000万人以上の視聴者を集め、テレビ視聴者全体の驚異的な82.6%を占めた。「冷たくしないで」、「やさしく愛して」、「ハウンド・ドッグ」といったヒット曲を披露し、プレスリーは国中を熱狂させた。映画は、放送局の検閲官がエルヴィスを腰から上しか撮影しないよう命じたという伝説的な3回目の出演にも触れる。しかし、ショーの最後にサリヴァンは歌手の肩を抱き、「彼は本当にまともで、素晴らしい青年だ」とアメリカ国民に保証した。テレビ界で最も信頼される司会者からのこのお墨付きは、物議を醸したロックンローラーが一般大衆に受け入れられる上で決定的な役割を果たした。
二つ目の地殻変動は、ビートルズのアメリカデビューだった。ドキュメンタリーは、サリヴァンの国際的なタレントスカウト網が、彼らがアメリカで知られるようになる数ヶ月前にバンドを発見した経緯を詳述する。1964年2月9日の初出演は、当時のテレビ史上最高の視聴率を記録し、7300万人が視聴した。映画はこの瞬間を単なる音楽デビュー以上のものとして描く。それはブリティッシュ・インヴェイジョンの公式な幕開けであり、ケネディ大統領暗殺後の悲しみに沈む国に待望の若々しいエネルギーをもたらした、世代を象徴する文化的な出来事だった。「オール・マイ・ラヴィング」、「ティル・ゼア・ウォズ・ユー」、「シー・ラヴズ・ユー」を演奏する中、番組は各メンバーを紹介する字幕を画面に表示し、ジョン・レノンには「ごめんね、女の子たち。彼は結婚してるんだ」という遊び心のあるキャプションをつけるなどして、新しいアメリカの聴衆に彼らのアイデンティティを形成する手助けをした。これらの象徴的でよく知られた物語を、何十年にもわたる黒人アーティストの持続的なプロモーションと並置することで、映画は強力な暗黙の主張をする。それは、誰もがビートルズが演奏した日を覚えている一方で、サリヴァンが人種平等のために繰り広げた、より静かで粘り強い革命は、彼の遺産の中で同等か、それ以上に重要な部分であったということだ。
複雑な遺産
『サンデー・ベスト』は単純な聖人伝ではなく、複雑でしばしば矛盾に満ちた人物の多角的な肖像を描き出す。人種問題に関しては進歩的であったサリヴァンも、番組を「鉄の意志」で運営する権威主義的なプロデューサーであり、その伝説的な確執で知られていた。ドキュメンタリーは、彼の支配や保守的な感性に挑戦したアーティストたちとの有名な衝突を隠さない。ロックンロールの先駆者ボー・ディドリーは、サリヴァンが要求したテネシー・アーニー・フォードの「シックスティーン・トンズ」の代わりに自身のヒット曲「ボー・ディドリー」を演奏したため、番組から永久追放された。ドアーズは、ジム・モリソンが事前に「ハートに火をつけて」の歌詞「girl, we couldn’t get much higher」を変更することに同意していたにもかかわらず、生放送で元の歌詞を歌ったため追放された。ローリング・ストーンズは「let’s spend the night together」を「let’s spend some time together」と歌うことを強いられ、ミック・ジャガーは抗議の意を込めてカメラに目を向けた。そしてボブ・ディランは、CBSの幹部から政治的な風刺曲「トーキン・ジョン・バーチ・パラノイド・ブルース」を歌うことはできないと言われ、出演前にセットを去った。バディ・ホリーでさえ、司会者の意に反して「オー・ボーイ!」を演奏すると主張したことでサリヴァンの怒りを買い、放送中に名前を間違えられ、ギターアンプの音量を下げられるという仕打ちを受けた。
さらに、映画はサリヴァンの進歩主義にも限界があったことを認めている。人種差別的なスポンサーに立ち向かった同じ人物が、反共産主義のブラックリスト「レッド・チャンネルズ」の圧力に屈し、左翼的とされるパフォーマーを非難した。これは、ブラックリストに載せられた後も支持し続けたハリー・ベラフォンテへの揺るぎない忠誠心とは対照的である。これらの矛盾は、彼が深く保守的な枠組みの中で活動する進歩主義者であったことを示している。彼の人種平等への闘いと、白人のロック・カウンターカルチャーへの不寛容は、同じ源から来ていたのかもしれない。それは、秩序ある愛国的なアメリカという特定のビジョンへの信念である。彼は人種統合を国の約束を果たすための道徳的必須事項と見なす一方で、後の世代のアーティストたちの反逆、ドラッグへの言及、反権威主義をその同じ理想への脅威と見なしていた。彼は、自らの時代の最も重要な社会規範の一つを勇敢に破りながら、他の多くの規範を厳格に守った人物だった。
最終評価
最終的に、サシャ・ジェンキンスの『サンデー・ベスト』はその野心的な目標を達成している。このドキュメンタリーは、文化的な巨人を説得力をもって再評価し、新世代の視聴者に、ぎこちない姿勢や有名な硬い口調の裏にある、静かな革命家の心を見るよう促す。この映画の最大の貢献は、テレビが社会変革を常態化させる力を持つことを力強く示した点にある。サリヴァンの最も永続的な遺産は、彼が世界に紹介した数え切れないほどのスターたちだけでなく、彼が打ち破るのに貢献した深い社会的障壁にあると、この映画は主張する。23年間にわたり、彼は自らの「本当にビッグなショー」を用いて、そうではなかった国に対し、統合され調和のとれたアメリカのビジョンを提示した。そうすることで、彼は才能、尊厳、そして天才には肌の色は関係ないという、シンプルだが根本的な考えを擁護したのだ。
この90分のドキュメンタリーは、2025年にNetflixで初公開された。