映画

混沌の中での青春文化の反抗的な鼓動

Molly Se-kyung
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『I’m No Longer Here』のオープニングショットは、ウリセスがラジオアンテナを慎重に調整する手に焦点を当てている。画面には彼の手作りヘアスタイルが広がり、色と反抗の爆発だ。この映画が単なる生存物語ではなく、混沌の中で若者たちがアイデンティティを切り開く小さな頑張りと意地の物語であることがすぐに伝わる。

フェルナンド・フリアス・デ・ラ・パッラ(Fernando Frías de la Parra)の2019年のドラマは、彼自身の短編小説を原作としたノンリニアな物語で、メキシコのモンテレイに住む17歳のギャングリーダー、ウリセス・サンピエロ(フアン・ダニエル・ガルシア・トレビーニョ)の物語だ。地元カルテルとの暴力的な誤解が原因でアメリカへ逃亡することになり、映画はメキシコでの彼の生活とクイーンズでの混乱した新しい現実を交互に描いている。これは移動による文化の消失や懐古病的な執着についての物語だが、同時に青春文化の回復力についても語っている。

この映画の最大の強みは、コロンビア反文化(Kolombia)というサブカルチャーを生き生きと描写したことだ。フリアス・デ・ラ・パッラ監督がこの世界を深く理解していることは明らかだ。ウリセスのギャング「ロス・テルコス」がスローされたクンビア(cumbia rebajada)に合わせて踊るシーンは圧巻で、音楽がフレームを突き抜け、カメラがダンサーたちの揺れる体と同期している。これらの瞬間は生きているように感じられ、青春反抗の生のエネルギーや所属する喜びの一時性を捉えている。ガルシア・トレビーニョの演技は魅力的で、脆弱さと自信が混在している。ウリセスが踊るとき、それは単なる動きではなく、自分自身であることを宣言すること、消されないことを拒否することなのだ。

ノンリニアな構造は当初は物語の深みを加えるが、メキシコとアメリカを行き来するうちに混乱が生じる。一部の転換は唐突で、物語から引き離されることもある。クイーンズでのウリセスの日雇い労働者としての生活では、ロス・テルコス時代の鮮やかさに欠け、文化的な豊かさが不足しているため、緩慢に感じられる。

しかし、フリアス・デ・ラ・パッラ監督は大胆な演出の選択をしており、その多くは効果的だ。音響の使用が特に印象的で、ウリセスがクイーンズに到着したとき、映画はほぼ無音になり、彼が胸に抱くラジオからの音だけが聞こえる。これは孤立を表す強力な比喩であり、ノンリニア構造が物語を邪魔するのではなく、深める数少ない瞬間の一つだ。

サポートキャストも強い演技を見せているが、一部のキャラクターは発展不十分に感じられる。ウリセスの雇い主の大甥っ子であるリン役のシュエミン・アンゲリーナ・チェン(Xueming Angelina Chen)は目を引く。彼女の優しさと好奇心は、アメリカでのシーケンスに必要な感情的な支えを提供するが、それでも彼女は完全に実現された人物というよりもアイデアのように感じられる。

この映画の独創性は、ほとんどスクリーンに登場しないコロンビア文化(Kolombia)に焦点を当てていることだ。cumbia rebajadaのサウンドトラックは革新的で、映画に独自の聴覚的アイデンティティを与えている。しかし、ノンリニア構造は野心的だが、時にギミックのように感じられる。物語にはより一貫性が必要で、タイムライン間を行き来することで一部の感情的なビートが思うように伝わらないことがある。

ジャンルとしては、『I’m No Longer Here』は成長物語と社会批判の間を細く走っている。青春反抗の精神を捉えることに成功しているが、移民や文化的な置き去りについてのより広範なテーマに取り組むときにはつまずいている。そのブレンドは常にスムーズではなく、一部の瞬間が不均一に感じられる。

これは最終的に、生の文化的に特定的な物語を好む人々のための映画だ。家庭やコミュニティ、アイデンティティから引き裂かれるという切ない感覚を経験したことがあるなら、ウリセスの苦闘に共鳴するだろう。しかし、これは簡単な観賞ではない。ノンリニア構造は忍耐を要求し、一部の視聴者は動かされるよりもイライラさせられるかもしれない。

フリアス・デ・ラ・パッラ監督は大胆で視覚的に印象的な映画を作ったが、すべてのリスクが報われたわけではない。

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