映画

Netflix『ザ・ラストハウス』グレタ・リーとワグネル・モウラ、開かない家に閉じ込められる

Martha Lucas

一家が目を覚ますと、扉が開かない。鍵ではない――壁を塞ぐように封じられている。まるで家が一夜のうちに、家であることをやめて容れ物になると決めたかのように。窓は持ちこたえる。壁も持ちこたえる。外では何かが待ち、その名を明かそうとしない。内側では、互いを分かり合っていたつもりの四人が、もう行き場のないとき、その確信に何の値打ちがあるのかを知ろうとしている。

YouTube video

ルイ・レテリエがマシュー・ロビンソンの脚本で撮ったサバイバル・スリラー『ザ・ラストハウス』は、引き算で動く。一家に家を与え、そこから出口を、説明を、そして一時間ごとに蓄えを取り去っていく。グレタ・リーとワグネル・モウラが四人家族の両親を演じ、映画は彼らの世界すべてを一つのセットと減っていく食料庫へと縮めていく。外に脅威は潜むが、映画はそれを勘定の外に置く。脅威は与えないものによって定義され、与えないのは出口である。

配役こそが主張だ。リーは『パスト ライブス』で、人物が言わないと選んだものの上に一場面を支えられる俳優として現れた。モウラは十年にわたり、落ち着きが気質ではなく戦術であるような男たちを演じてきた。そんな二人を出口のない部屋に閉じ込めることは、映画が何を見ているかを告げる。家を封じる仕掛けではなく、食料があとどれだけ持つか、どの嘘がもう一晩持つかを計算する二つの顔を。

レテリエは自らの反射に逆らって撮っている。その名はふだん、疾走する大画面の映画の上にある――『グランド・イリュージョン』の手品、『Lupin/ルパン』の速度。ここでは逆をいく。『ザ・ラストハウス』は密室劇であり、彼の撮ったどの作品よりも扉を閉ざした舞台劇に近い。外へ切り返さないという拒絶は、制約ではなく方法だ。カメラは家族の空間の経済の内側にとどまり、中身が減っていく同じ部屋を測り直し続ける。

この閉じ込めは、封じられた家を内側からすでに知る十年に落ちてくる。外へ出さない住まい、同じ四つの壁を何週間も配分し交渉させられる家族、檻に変わる避難所――映画は観客が自ら差し出す記憶を呼び起こす。SFである前に、家庭の物語だ。レテリエは脅威をつねに画面の外に、説明なしに置く。その曖昧さは寛大で、観客はそれぞれ、外の空間を最も恐れるもので満たす。

緊張は驚かしではなく、家庭の段取りから編まれる。水を誰が握るか。子どもにはまだ知らせなくていいと誰が決めるか。どちらの親がにらみ合いを破り、どちらが続かせるか。封印は原動力だが、物語はその下を流れる結婚だ。壁が二人を検分するあいだ、夫婦は子の前で有能さを演じてみせる。

The Last House
The Last House. Emma Ho as Ruth in The Last House. Cr. Chris Baker/Netflix © 2026

残るのは、映画が立て、自らの壁の内からは閉じられない問いだ。封印が破れれば、一家は通りへ戻る。だが週の始まりの自分たちへではない。彼らは出口を閉ざされたまま、互いが選び、配分し、嘘をつき、ひるむのを見てしまった。生き延びることは世界を返せる。互いをそう見なかったことは、返せない。

『ザ・ラストハウス』は2026年8月7日、Netflixで全世界同時配信。レテリエがマシュー・ロビンソンの脚本を演出し、約110分の本作にはグレタ・リーとワグネル・モウラ、ライリー・チョン、エマ・ホー、ノア・アレクサンダー・ソスノウスキーが出演する。製作はChernin Entertainment。

キャスト

  • Emma Ho

タグ: , , , , ,

ディスカッション

0件のコメントがあります。