映画

『Centauro』――疾走感あふれる追走劇、道が尽きる前にアイデアが尽きる

Martha O'Hara
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タイトルを聞いただけで、どんな映画かが伝わってくる作品がある。ケンタウロスは、乗り手と馬のあいだに境目のない生き物だ。アレックス・モンネル(Àlex Monner)が演じるラファも、そんな存在として描かれる。彼は、スピードに乗った自分と乗り物が別々のものではなくなったときにこそ、本当の自分になれる男だ。ダニエル・カルパルソロ監督が手がけたスペインのスリラーで、Netflixが配信した。ヤン・ゴズラン監督のフランス映画『Burn Out』(2017)のリメイクで、物語はひと言で説明できる。スピードレースの純粋で燃えるような感覚に取りつかれたラファは、子どもの母親が麻薬密売人と関わってしまうと、彼女を救い出すためにアクセルを踏み込む。

そのひと言が、ほぼ物語のすべてでもある。まずそこを明確にしておきたい。『Centauro』の長所も短所も、そこから生まれているからだ。これほどコンパクトな物語に寄り道をする余地はない。ラファの唯一の才能が、彼にとって唯一の武器になる瞬間へと、各シーンが彼を押し出す機械のように走り続ける必要がある。うまくいくときは、優れた追跡劇と同じだ。あれこれ考えるのをやめ、座席から身を乗り出してしまう。そうでないときには、作品を支えているアイデアがいかに少ないかが目につく。

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まずは良いところから見ていこう。ある男の悪癖と、彼が人の役に立つ能力が、同じものであるという発想は、スリラーを動かすエンジンとして申し分ない。ラファのスピードへの執着は、危険が迫った途端に脚本が脇へ置くような趣味ではない。危機を乗り切るために、まさにそれが必要となる。そこに作品ならではの心地よい筋道が通っている。彼を頼りなく見せてきた性質、パートナーや子どもなら当然やめてほしいと思うその性質こそ、彼を助けになれる人物にしているのだ。カルパルソロは、この皮肉が作品の切り札だと分かっているようで、くどくならない程度に効かせている。深遠な洞察というわけではない。だが、手際のよい見立てではある。89分の映画では、そうした手際のよさが大きな意味を持つ。

IMDbの上映時間表記で1時間29分、つまり89分という短さも、もうひとつの強みだ。『Centauro』は無駄に引き延ばさない。登場人物を紹介し、緊張を高め、先へ進む。配信スリラーを2時間半も見せられた経験のある人なら、この軽快さにほっとするだろう。Espinofのミケル・ソリージャは本作を「trepidante」と評した。スピード感を表すこの言葉は、作品の問題の原因もまたそのスピードにあるとはいえ、的を射ている。Rock and Filmsはレビューに「Ruedas en vez de patas(脚の代わりに車輪)」という見出しをつけた。タイトルの神話上の生き物にエンジンを与えた作品だと、うまく言い表している。どちらの見出しも、この映画は議論するより、動きのなかで体感するものだと捉えている。私も、その見方が正しいと思う。

では、問題点は何か。スピードはカメラで捉える題材としては素晴らしいが、人物描写には向いていない。ラファがナタリアと子どもを失うことを恐れている、その気持ちを観客に感じてほしいと映画は願っている。モンネルにはその重みをにじませるだけの力があるが、脚本が彼に与えるものは、切迫感以外にほとんどない。ラファが何を求め、何をしなければならないのかは分かる。だが、立ち止まっているときの彼がどんな人間なのかは、あまり見えてこない。同じことは、ナタリアを演じるベゴーニャ・バルガスにも当てはまる。彼女には、より気の毒な役回りが与えられている。物語の都合で危険な目に遭わされ、その彼女を救いに来る男の側から話が描かれるのだ。バルガスには確かな存在感がある。ナタリアがただ苦しむだけでなく、自分の置かれた状況に自ら働きかける姿を描いていたら、この映画はもっと豊かになっていただろう。

ここにはテーマがある。映画も、それを半ば自覚している。ラファは父親だ。少なくとも、子どもの父親ではある。そして物語は、その責任と彼の依存症をひそかに対比させている。ある感覚を追い求めるのをやめられない男に、自分を頼りにする人たちのためにそこにとどまり続けることができるのか。なかなか考えさせる問いだ。『Centauro』は主に設定を通してその問いを投げかけるものの、正面から見つめることはほとんどない。惜しいところだ。静かな場面をいくつか設けて問いを直接掘り下げても、勢いが損なわれることはほとんどなかっただろうし、物語には大きな厚みが加わったはずだ。現状では、その問いはアクションの背後に漂ったまま、前面に出てくることはない。

麻薬密売人たちは、本作で最も弱い要素だ。この手のスリラーは脅威によって動くが、ここでの脅威は、しっかり作り込まれているというより、輪郭を描いただけに見える。ボロ役のカルロス・バルデムは、キャスティングとしては申し分ない。画面に威圧感をもたらし、わずかな台詞に不穏さを宿せる俳優だ。彼を取り巻くのは、カルロス役のエドガル・ビトリーノ、マテオ役のアブラハム・ペレス・フェルナンデス、ハイロ役のセバスティアン・シオンテスク、ティコ役のアンデルソン・ブライアン・ゴンサレス・モントーヤ、コルテス役のドラール・セルムーニ、バルデラマ役のビッグ・ロイス、そしてレヒーナ・コスタス役のパトリシア・ビコだ。これほどテンポの速い映画にしては、ずいぶん多くの名前が並ぶ。しかし大半は人物というより、機能として印象に残る。脅す者、従う者、見張る者。これは俳優たちの責任ではない。上映時間が1時間半に満たない映画で全員に個性を与えるのは難しい。何かを選ばなければならないとき、本作はいつも厚みよりスピードを選ぶ。

音楽はカルロス・ジャンが担当し、「Centauro’s Theme 1」はサウンドトラック盤に収録されている。この手の映画で音楽が担う役割は二つある。レースが始まったあとも鼓動を高め続けること、そして静かな場面が間延びしないよう支えることだ。前者は、後者よりもうまくできている。動きを軸に作られたスリラーの音楽ではよくあることだろう。静かな場面で語ることがあまりにも少ない映画の責任まで、ジャンに負わせるつもりはない。

リメイク作品には、気まずい問いがつきまとう。なぜ作るのか。『Burn Out』はすでにある。現実的な答えは、コンパクトなジャンル映画の物語は言語を越えて届けやすい、ということだろう。私はそれを悪いとは思わない。男と、その子どもの母親、そして犯罪の脅威。この設定に翻訳は必要ない。だがリメイクには、独自の何かを加える責任もある。設定に関する情報から判断するかぎり、『Centauro』は前作の筋立てをなぞることに満足しているようだ。もしこの映画に土地ならではの響きがあるとすれば、それは物語への新しい着想というより、出演者や使われている言語から生まれている。手堅いコピーだ。これは、褒め言葉としてもそのままの意味でもある。

本作はNetflix作品でもあり、その意味合いは作品から伝わってくる。テンポのよい上映時間、分かりやすい危機、サムネイルを見ただけでつかめる設定。IMDbのユーザー評価は10点満点中5.4点で、あるユーザーは「ながら見にちょうどいい、楽しめる映画」と評している。褒め言葉としては少々含みがあるが、不公平だとは思わない。半分だけ見て楽しめるからといって、作品の価値が下がるわけではない。ただ、じっくり目を凝らすことを求める映画ではないということだ。そして、ナタリアが危険にさらされる場面のように、観客にしっかり見てほしいと求めるところでも、その注意に見合うだけのものを必ずしも積み上げられていない。

では、どんな人に向いているのか。シンプルな仕掛けで力強く疾走し、欠点がそのまま才能でもある主人公が登場するスリラーを手早く楽しみたい人なら、ひと晩の娯楽として満足できるだろう。人物像に厚みのある悪役や、借りてきた物語に対する独自の視点、依存症が家族にもたらすものを真剣に描いた作品を期待する人は、物足りなさを覚えるはずだ。モンネルは身体と鼓動を作品に与え、バルガスにはもっと活躍の場がほしい。カルパルソロは物語を走らせ続ける。『Centauro』は記憶に残る映画ではないが、そもそもそうなることを目指してはいない。89分間、アクセルを緩めず走り抜ける。

キャスト

写真:The Movie Database (TMDB)

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