映画

リンクレーターが「勝手にしやがれ」誕生の現場をモノクロで甦らせる「ヌーヴェルヴァーグ」

Richard Linklater が Jean-Luc Godard の「勝手にしやがれ」撮影の現場を白黒で再構築する。Jean Seberg に Zoey Deutch、無名の Guillaume Marbeck が Godard を演じる。「ヌーヴェルヴァーグ」は、一本の映画が生まれる瞬間を撮った映画であり、革命への忠実さが原典の電圧を運べるかという静かな試みでもある。
Jun Satō

一本の映画が生まれる瞬間を描く映画は、まず表面を正確に合わせなければならない。Richard Linklater はそれを粒子の側から組み立てる。「ヌーヴェルヴァーグ」は Jean-Luc Godard の「勝手にしやがれ」の撮影現場を、澄んだモノクロームで再構築する。原典をファッション撮影から密輸された記録映画のように見せた、あの艶のある灰色と硬いパリの光。カメラは Godard のそれと同じように動く。手持ちで、急がず、一人の若い批評家が議論を重ねながら監督になっていく様子を見つめている。

その前提はほとんど挑発に近い。アメリカ人の作り手が、フランス語で、最もフランス的な革命を、それが起きた通りの上で組み直す。Guillaume Marbeck は Godard を、黒い眼鏡の奥に身を潜めた痩せた人物として演じる。映画を撮ることこそ自分に書ける最も鋭い批評だと確信している男。ここでは質感が論証だ。時代の車、煙草の煙、詰まった襟と細いネクタイは、郷愁というより証拠として読める。あの運動が理論に固まる前は、一つの見え方であり、一つのテンポであったという主張として。

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Zoey Deutch が Jean Seberg として映画を支える。このキャスティングが、作品が何になろうとしているかの最も明瞭な合図だ。Seberg はフランスの実験の内側に置かれたアメリカ人だった。台本のない街に落とされたハリウッドの顔。Deutch は同じかすかな脱臼を運ぶ。短いブロンドのクロップと Herald Tribune のシャツが図像の仕事を引き受け、その落ち着きが周囲の喧噪に対して保たれる。Aubry Dullin はボクサーの猫背で Jean-Paul Belmondo を演じる。Adrien Rouyard が Francois Truffaut、Antoine Besson が Claude Chabrol。Cahiers du cinema の批評家たちは、自分たちのやりたいことには誌面が小さすぎると決めた者たちだ。

第一の映画の内側に、撮ることそのものを巡る第二の映画が畳み込まれている。Linklater はカチンコを、失敗したテイクを、フランを数える製作者を、車椅子でカメラを大通りに押していく撮影監督を、丁寧に組み上げる。その再現は、メイキング映像を持たなかった一本のための擬似メイキングとして機能するほど細かい。そして即興が一コマずつ計画され、偶然の見え方へと作り込まれていくのを眺める愉しみがある。

そこに甦る世界は議論で回っていた。Godard、Truffaut、Chabrol とその仲間は、当時の漆塗りのようなフランス映画を Cahiers du cinema の誌面で何年もかけて解体してきた。ここで劇化される賭けは、批評が紙面を離れてカメラを手にする瞬間だ。Linklater はその転回を、劇的な問いであると同時に設計の問題として扱う。狭い編集室と、語彙が書き換えられていた大理石の天板のカフェのテーブルを組み、そこを俳優たちの落ち着かない、理論に酔った会話で満たす。美術が時代を負うから、台詞は生きたままでいられる。

Linklater はほぼ無名のフランス人キャストと、デザイナーの規律でロケ撮影した。レンズ、光、そして街路を歩く身体の緩やかな振り付けを、原典のリズムに合わせる。音も同じ簡素さを運ぶ。足音、車の流れ、スレートの音、現れては退いていくジャズの一節。彼はかつて持続そのものから映画を組み立ててきた。ここでの忍耐は敬意として読める。一つの機械がどう動いていたのかを理解するために、それを組み直す者の佇まいだ。

この映画が製造できないものがある。危うさだ。「勝手にしやがれ」が意味を持ったのは、許可もなく、失うものもなく、編集の文法を公衆の面前で破ったからだった。再現は、どれほど精密でも、保存の行為である。「ヌーヴェルヴァーグ」はその全長を、オマージュが模倣に接する線の上で過ごす。観客に、ヌーヴェルヴァーグへの愛着を扉の外から携えてくることを求め、その愛着を一から勝ち取りはしない。そして表面の忠実さそのものが、敬おうとしている無謀さを滑らかにならしてしまう。美しさは易しいところだ。撮り直せないのは、危険のほうだ。

Zoey Deutch as Jean Seberg in the Linklater film Nouvelle Vague (2025)
Zoey Deutch in Nouvelle Vague (2025)

それでも、注意深い画面の内側に本物の着想が座っている。あの運動が残した最大の遺産は、様式というより許可だった。カメラと、街路と、一つの視点があれば始められるという確信。スタジオ・システムの縁で自分の経歴を築いてきた Linklater は、その確信を明らかな感情とともに撮る。モノクロームは衣装から見方へと変わる。白黒は過去に被せたフィルターではない。それは、この映画があなたに借りるよう求めている眼だ。

「ヌーヴェルヴァーグ」(原題 Nouvelle Vague)は106分、ARP Selection と Detour Filmproduction の製作。脇には編集者 Suzanne Schiffman 役の Jodie Ruth-Forest と、製作者 Georges de Beauregard 役の Bruno Dreyfurst。Godard が Truffaut と素描したトリートメントから組み立てられた一本に資金を出した男だ。本作はカンヌ国際映画祭のコンペティション部門で初上映され、長いスタンディングオベーションを受けた。上映後、Netflix が論争を伴う取引で合衆国の権利を取得した。日本公開は2026年7月10日。

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