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小津安二郎 『東京物語』の巨匠が戦地の日記に残したもう一つの顔

Penelope H. Fritz
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小津安二郎
小津安二郎
Photo: Unknown authorUnknown author / Public domain, via Wikimedia Commons
生年1903年12月12日
日本東京都深川
没年1963年12月12日 (60)
職業映画監督
代表作東京物語, 晩春, An Autumn Afternoon
受賞Sutherland Trophy, London Film Festival · Mainichi Film Award for Best Director · Blue Ribbon Award for Best Director · Medal with Purple Ribbon · Japan Art Academy Prize · Order of the Rising Sun, 4th class

鎌倉の円覚寺にある小津安二郎の墓には、名前が刻まれていない。母と並んで眠る墓石に刻まれているのは、ひと文字だけだ。「無」。死後に批評家たちが作り上げた小津像には、よく似合う。日本映画の僧侶、空っぽの部屋や急須を撮り、床に据えたカメラを決して動かさない監督。しかし、その人物像は実際の小津にはあまり当てはまらない。小津はエルンスト・ルビッチを愛し、酒を一本空けるごとに脚本を書き上げ、兵士として中国で過ごした二年間には、分隊長の報告書のような淡々とした筆致で戦争を日記に記した。

小津は54本の映画を監督した。世界の記憶に残る作品には、同じ部屋が何度も登場する。配偶者を亡くした親、成人した娘、そして家を空っぽにする結婚。晩春でも、そして秋刀魚の味でも、父親は娘を結婚へと導くが、カメラが式に立ち会うことはない。娘の旅立ちを撮り続けた小津自身は、結婚しなかった。母が亡くなるまで一緒に暮らし、その母を失った数か月後に最後の作品を撮った。

1903年12月12日、肥料商の次男として小津が生まれた東京の商人町、深川。だが、小津がそこで過ごした時間は短かった。三重県の父の故郷、松阪で育ち、授業を抜け出して映画館に通った。少年時代にアメリカの戦争大作Civilizationを観て、進みたい道が決まった。大学受験に失敗し、山あいの学校で代用教員を一年務めた後、父の反対を押し切って1923年に松竹へ入社。カメラ助手として働き始めた。

若き日の小津は、後世に作られた伝説的なイメージとはまるで違っていた。洋装の「モダンボーイ」で、サイレント喜劇ではルビッチ、キング・ヴィダー、ウィリアム・ウェルマンからあからさまに影響を受けていた。脚本のいくつかには、ジェームズ・マキの名を署名している。野田高梧と共同で脚本を書いたデビュー作の時代劇は現存せず、サイレント期の長編作品も17本が失われた。野田はその後も残り、小津の全キャリアを通じて共同脚本家を務めた。小津の代名詞となる低いカメラ位置が初めて登場したのは、1928年、松竹が求めていた短尺でスター俳優の出ない喜劇の一本だった。

大人の見る繪本 生れてはみたけれどが転機となった。父親が上司の前でおどける姿を目撃した二人の少年を描くサイレント喜劇で、小津作品として初めて『キネマ旬報』年間ベスト・テンの首位に選ばれた。そこにはすでに、小津が生涯にわたって描き続ける主題がある。家族がその長である父親を、ようやく正面から見たときに何が見えるのか。小津はトーキーへの移行も、カラー映画への移行と同じく遅かった。初のトーキー作品一人息子が公開されたのは1936年、日本初のトーキー映画から5年後のことだった。

その後、軍隊に召集された。1937年9月に徴兵された小津は、化学兵器を扱う歩兵連隊とともに上海に渡り、軍曹に昇進。1939年7月まで中国中部で戦った。

穏やかな小津像が受け止めにくいのは、記録に残されたこの部分だ。1939年春に書かれた公刊日記には、所属部隊がガスを使用したことが記されている。映画史家の田中眞澄は、2005年に刊行した小津と戦争に関する著書で、1938年の手紙と1939年1月の日記を取り上げた。そこには、部下たちに割り当てられた軍の慰安所について、入場券や避妊具の支給、料金、そしてそこにいた朝鮮人女性3人と中国人女性12人のことが記されている。小津は別の戦時日記も残したが、公表を禁じていた。こうしたことは、どれも映画には登場しない。帰国後に撮った作品が描くのは、義務と静かな喪失だ。小津の死後、主に西洋の批評家たちが築いた禅的な作品解釈には、その静けさが何から生まれたのかを語る余地がほとんどない。

1943年、二度目の召集を受けた小津は、完成することのなかったプロパガンダ記録映画を撮るためシンガポールへ向かった。そこで過ごす間、読書をし、軍が所有していたアメリカ映画を観た。なかにはCitizen Kaneもあった。日本の降伏後、小津は撮影したフィルムを処分した。1946年2月に帰国する際には、抽選で当たった最初の引き揚げ船の席を、帰国をより切望していた別の男性に譲っている。

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その後に生まれた作品群こそ、世界が知る小津の仕事だ。晩春、麦秋、そして東京物語。いずれも原節子が紀子という若い女性を演じ、視線を家族に絞り込みながら、その内側にあるすべてを見つけ出した。東京物語では、老夫婦が東京に住む子どもたちを訪ねるが、子どもたちは忙しくて相手をする時間がない。二人のために時間を作るのは、戦争から夫が戻らなかった、未亡人の嫁だけだ。小津作品で何十年にもわたって父親役を演じた笠智衆が、物語の中心にいる。

小津のスタイルは説明するのは簡単だが、まねるのはほとんど不可能だ。50ミリレンズを使い、床から30〜60センチほどの高さにカメラを据えた。フェードやディゾルブの代わりに、ストレートカットや建物、やかんを映す静止ショットを使い、カラー作品ではカメラをまったく動かさなくなった。初のカラー作品彼岸花では、赤の色合いが気に入ってドイツのアグファのフィルムを選んだこともある。かつて助手から、会話する人物同士は互いに視線を向けているように見えるべきだと言われた小津は、同じ場面を二通りの方法で撮影して比較し、「違いはない」と言い切った。

日本では早くから評価された。小津作品は『キネマ旬報』のベスト・テンで6度首位を獲得し、1959年には映画人として初めて日本藝術院賞を受賞した。一方、海外で評価が広がるには時間がかかった。国内では、小津の映画は外国人には日本的すぎると考えられていたからだ。東京物語がロンドン映画祭で上映されたのは1958年になってからで、サザーランド杯を受賞した。2012年には、Sight and Soundが実施した監督358人の投票で史上最高の映画に選ばれ、10年後の批評家投票でも4位に入った。

小津は1963年12月12日、60歳の誕生日に東京で咽頭がんのため亡くなった。秋刀魚の味を撮った翌年のことだった。小津をめぐる議論は今も続いている。ヴィム・ヴェンダースはTokyo-Gaで小津の東京を探し、侯孝賢は生誕100年にあたってCafé Lumièreを制作した。最新作は、ダニエル・ライム監督のドキュメンタリーThe Ozu Diariesだ。2025年にヴェネツィア国際映画祭の「ヴェネツィア・クラシックス」部門で初上映され、2026年5月にはTurner Classic Moviesでテレビ放送された。日記、手紙、スケッチ、ホームムービーをもとに、小津自身の言葉を中心に構成され、彼の映画20本とともに紹介された。

小津を知るには、日記こそふさわしい手がかりだ。そこには、慰安所の料金を書き留める軍曹と、蓼科の山荘で野田と酒を一本、また一本と空けながら脚本の進み具合を測る作家の姿がある。そして映画には、小津が残すと決めたものだけが映っている。どの作品も、同じことを語っている。人生を変える出来事は画面の外で起こり、カメラの役目は、その後も部屋にとどまることなのだ。

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